2016年8月8日月曜日

ふと思う

 リオ・オリンピックが始まって、メダル獲得のニュースがテレビで放映されています。やはり一流のアスリートが活躍するゲームの興奮度は凄いものがありますね。特に日本人の活躍は大いに盛り上がってしまいます。
 そんな時、Eテレのバリバラでは「相模原の大量殺人」に関するテーマを取り上げていました。
障がいを持つ人間にすれば、基本的な違いはないのに有用か無用かで分別されてしまう現実には脅威があると指摘していました。また、誰かに支えられていなければならない現実の障がい者にとって、近隣の理解は必要不可欠であるにも関わらず、あのような惨事がその身分を更に狭めてしまうことに成りはしないかとも…。
 「生きる価値がない」という言葉。世の中の労働能力の有無や序列で給与支給の優劣を決定したり、切り捨てしたりしている現実のそこかしこに、そのような「無用論」は潜んでいるような気がしてならないとも言っていました。日本でもほんの20年ほど前まであった「優生思想」。いまだに障がい者は不幸だと決めつける一方的な誤った思想が根底にはあるのかもしれません。
 大切なものは、序列ではなく存在と意義、そして関係性ではないでしょうか。(堀)

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