突如襲った大地震から早や1年‥。
あの日は体験したことのない大地の揺れに驚き、必死で机の上の荷物を抑えていた。その後治まるはずの揺れが、新たな揺れを導いて余震の折に外へ飛び出した。外には多くの職員が飛び出して、恐怖に怯えた声を上げていた。車は左右に揺れ電線が波を打つ。余震は恐怖を与え続けていた。‥数時間後、必死の思いで家に帰るも信号は止まっていた。幸い家での被害は瓦がずれたり水槽が割れたりと少なかったことに安心したことを強く覚えている。
その後、食事時なのに予想できない展開に会話もなく、不安な眼差しで画面を見つめていた。当然テレビはつけっ放し‥。映像で流れる大津波の様子が、爆発炎上する工場の様子が、どれも余震で揺れる心に絶え間なく襲いかかってくる。しかも、横浜に行った息子からの連絡が「駅にいる」だけ。ずっと不安と恐怖の時間が続いた日だった。
それでも私たちは、最少の被害者である。ガソリンが不足し、瓦屋根も破損した。計画停電で不自由な思いもした。それでも東北や関東沿岸に比べれば‥。
その後の放射能問題。新たな恐怖は心に深くしみ込んできた。
2012,3,11。テレビを見て様々な思いが浮かんできた。引き続く困難に苦しむ被害者を見て涙した。まだ、終わるどころか、これからだ。 私たちに出来ることを考えよう。そう思いなおした日だった(堀)
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